昨日イコラブのライブに行ってきた。
会場の照明が落ちると、暗がりに無数のペンライトが灯る。色とりどりの光が波みたいに揺れる。ステージの上に彼女たちがいて、客席にこちらがいて、そのあいだにはどうやっても埋まらない距離がある。手は届かない。それなのに、同じ曲の同じ瞬間に、何千もの腕がいっせいに上がる。届かないのに通じている。ふしぎな時間だった。
声がかれるまでコールをやって、アンコールまで見届けて、夜の街に出た。駅まで歩きながらグループの名前のことを考えていた。
「イコラブ」と略して呼ばれるこの名はよく見ると言葉ですらない。=LOVE。等号と、愛。名前の半分が記号でできている。
おもしろいのは等号というものの性質である。「=」はそれ自体では何も意味しない。りんごや空や悲しみのように、指させる対象を持たない。等号はいつも、左と右、2つのものの「あいだ」にだけ立つ。AとBがある一点において同じ。——そう宣言するためだけにそれは生まれてくる。関係そのものがそのまま形になったような記号である。
そう思って「=LOVE」をもう一度見ると、奇妙なことに気づく。右辺にはLOVEがある。けれど左辺は空いている。何も書かれていない。( )= LOVE。何かが愛と等しい。その「何か」の空間はずっと空いている。
たぶん、そこに立つのだと思う。見ている人が。さっきあの客席にいた私たちのように。
そして、このグループには妹のような存在がいる。≠ME(ノットイコールミー)と、≒JOY(ニアリーイコールジョイ)。姉妹揃って記号で名乗った。等しい、等しくない、ほとんど等しい。=と≠と≒。三つでひとそろいの文法になっている。
考えてみれば、人と人のあいだに本当の「=」が成り立つことはめったにない。完全に同じ気持ち、完全に同じ温度。そんなものはたぶん数式のなかにしか存在しない。私たちが現実に生きているのはたいてい「≒」の方。「ほとんど」わかりあえる。「ほとんど」同じ。けれど「ぴったり」ではない。さっき会場で感じた、あの「届かないのに通じている」もつまりは≒だったのだと思う。そしてその「ほとんど」の隙間こそがもう少し近づきたい、と思わせる。完全に等しければ人はそれ以上、手を伸ばさない。
だからこの記号は人と人との正直な見取り図なのかもしれない。届かないこと(≠)、ぴったりではないこと(≒)、それでも等しくありたいと願うこと(=)。アイドルとファンという、近いようで永遠に少しだけ離れている関係をこれほど短く言い当てた名前も珍しい。
=LOVEの左辺はわざと空けてあるのだと思う。特定の誰かの名で埋めてしまわず、いつで、次の誰かが書き込めるように。だからこの式は永遠に完成しない。完成しないからこそ、何度でも新しい人が「わたしは、愛と等しい」と書き込める。空いている、ということ自体がひとつの優しさになっている。
