恋愛禁止のLinkedInが出会いの場になっているらしい。恋愛のためのアプリより、労働のためのアプリの方がモテる。冗談みたいだけれど、WSJが記事にするくらいには広がってるらしい。
マッチングアプリには入力欄がたくさんある。年収、身長、学歴、職業、休日の過ごし方。ないのは「ギリギリかどうか」の欄である。何かに賭けている、まだ途中である、という人間のいちばん面白い部分に、チェックボックスが用意されていない。全部を可視化する仕組みの中で、可視化できないものは存在しないことになる。ギリギリの男は落選するのではない。最初から表示すらされない。
KAT-TUNがデビューしてあの歌を出したのは2006年、平成の真ん中だった。当時、ギリギリで生きるのは若さの初期設定で、誰もが多かれ少なかれそうだったからあの一節は理由を言い切る形で書けたのだと思う。ギリギリが難しくなったのは勇気の問題ではなく、人目の問題である。平成のギリギリは隠せた。残高も職歴も、黙っていれば見えなかった。
令和は全部見える。見えるものは比較され、比較されるものには順位がつく。あの頃の失敗は忘れてもらえたけれど、今の失敗は検索すれば出てくる。ギリギリの中身は変わっていないのに、失うものだけが20年で増えた。
だから今、ギリギリは「選択」になった。ただ、それを口に出すことはできない。「俺はギリギリで生きる」と言えるのはまだ余裕がある人間だけである。明日どうなるかわからないなら、そんな宣言をしている暇はない。口に出せた時点でそのギリギリには保険がかかっている。本当に残高が尽きかけている人間はそれをプロフィールに書く余裕も、書く動機もない。
あの歌詞を今の僕らが歌うと、少し嘘っぽくなる。本気で生きている人の言葉というより、そう名乗りたい人の言葉に聞こえてしまう。ギリギリでいつも生きていたいのか。歌は何も変わっていない。変わったのは聴いている僕らの方である。
先日、後輩とコンビニに行った。レジに並んでいる間も彼はマッチングアプリをスワイプしていた。親指が止まらない。横で見ていると、あれは恋愛というより採用に近い。書類で落とすか通すかを決めて、会うところまではほとんどいかない。恋が採用に似ていく一方で、LinkedInのような採用の場から恋が始まっている。入れ替わったわけではなくて、恋がどこかに逃げ出しているのだと思う。
考えてみれば、条件検索というのは恋から賭けを抜くための技術である。外れを引かない仕組みが揃うほど、恋は保険に似ていく。そして保険に似た恋に人はあまり心を動かされない。恋というのはもともと、外れかもしれない相手に手を伸ばす行為の名前だったのかもしれない。恋愛禁止の場所で恋が始まるのは偶然ではないと思う。ギリギリは見せると条件になり、隠すとようやく賭けに戻る。
令和にギリギリで生きれるのか。
たぶん、生きれる。
誰にも申告しなければ。
僕らの体は設計図どおりには恋をしない。
僕はどうかといえば、こうして誰が読むかわからない文章を書いている。読まれる保証のない原稿は書いている間、ずっと途中である。答えが出るのは公開したあとで、それまで格好いいかどうかは決まらない。途中を生きると決めたくせに、公開する前から読まれた数を想像しているあたり、もうこれ以上偉そうなことは言えない。
